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nyaponは、鉄道の廃線跡をめぐるのが好きです。
リターンライダーしてからは、道路の旧道や廃道なんかも。
クルマ旅の際には、工場や炭鉱、煉瓦倉庫などの産業遺産もよく見に行きます。
愛川町にも大正時代の鉄橋、横須賀海軍への導水管、旧陸軍の飛行場遺構など近代化遺産が残っています。
明治以降の近代化遺産群が好きなのですが、避けて通れないのが、戦争や旧日本軍に関するものです。
ミリタリーマニアではないですし、戦争を美化する気もありません。
ただ、多くの人にもたらした悲劇、科学技術や産業の発展への貢献など、功罪含めて後世に残して伝えていく義務はあると思います。
中津川に架かる鉄橋
丹沢山地を源に、宮ヶ瀬湖(ダム)を経て、厚木市で相模川に合流する中津川。
我が家から徒歩圏内に、現在は人道橋として改装、保存された平山橋があります。
2003年まで交互通行(乗用車同士なら何とかすれ違え、規制もありませんでしたがドライバーの暗黙の了解で)の橋で、R412への出入りのボトルネックになっていました。
引っ越してきた当初、通勤で毎日通っていましたが、対向車が来ても多くて4,5台待てば通れるので、実際にはそれほど不便に思った事はありませんでした。
それよりも近代化遺産好きとしては、引越してくる前から、その3連トラス橋の美しさが気に入っていました。
しかし、すぐ下流には2車線のコンクリート製の新しい橋が建設中で、旧鉄橋がどうなるのかと・・・。
近所の人に話を聞くと「大正時代の架橋である」「他にも付近に3つの鉄橋がある」「旧平山橋は近代土木遺産としての価値が認められ、補修後に人道橋として残す」という事でした。
平山橋 (上流から望む。左岸側1連が大正2年製、右岸側2連が大正15年製。)
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平山橋
左岸側1連のみで大正2年に完成。河川改修でもあったのか、大正15年に右岸側2連が追加され現在の姿に。
何と言っても3連のトラスが美しいです。 大正時代から風雪に耐え、この地で歴史を見つめてきたのかと思うと感慨もひとしおです。
新しくできた案内看板によると「日本の近代土木遺産」「鉄(かね)の橋100選」「かながわの橋100選」の3つに選定されているそうです。
すぐ上流の田代運動公園付近の河原はバーべQのメッカで、シーズンには多くのキャンピングカーも集まりますが、この橋の事もぜひ一度じっくりと見て頂きたいものです。
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2003年1月26日、平山橋下流に平山大橋が開通し、自動車は平山大橋経由となりました。
右の写真は、人道橋に改装され保存された後の平山橋です。(※歩行者専用ですので、バイクに乗ったまま通行はできません。)
トラスに残る、戦時中の米軍機による機銃掃射の弾痕も、じっくり眺めることができるようになりました。
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銘板には、「大正二年三月竣成」とあります。(改装前の画像)
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上部には、味のある形状の照明が。
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保存に先立って、新しい橋(平山大橋)の脇には立派な案内看板もできました。
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我が家から一番近い鉄橋です。
家から徒歩15分位で、よくワンコの散歩に出掛けこの橋の下の河原で休憩します。
トラスの形状は平山橋と同じなので兄弟橋かと思うのですが、銘板が無くいつ架橋されたものか分かりませんでした。
道路脇のトラス内側には、横須賀水道の青い導水管が走っています。
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この辺りから上流は、宮ケ瀬ダムができる前は「中津渓谷」と呼ばれたそうで、川幅も狭くなり急に山間の風景になります。
右写真のようにフルサイズの路線バスも通行し、乗用車同士でも「自主的交互通行」の橋です。
2013年11月、ついに架け替えが決定し、仮の橋を架橋して4年半かかるという長期戦の工事が始まってしまいました。
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デザインも幅員も平山橋と同じようで、やはり交互通行の橋です。
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手前に見える青い鉄管が、横須賀市まで通じる導水管です。
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導水管の橋台(?)部はレンガ積みの味のあるものです。
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愛川橋・日向橋
さらに上流に進んでいくと現れるのが愛川橋、半原の町並みを抜けてR412に合流する手前、最後に渡るのが日向橋です。
中津川はこの先横須賀水道の半原水源地、R412愛川大橋を経て宮ヶ瀬ダムに達します。
この2橋は新しいようなのですが、愛川橋では銘板を発見できなかったので正確にはわかりません。
日向橋の銘板には1998年とあったので、最近架け替えたものだと思います。
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愛川橋
右岸はコンクリート製、橋脚を挟んで左岸側は鉄製トラス橋です。
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日向橋
銘板に「1998年竣工」とありましたが、昔の写真と同じ構造に見えます。
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横須賀水道みち ※2007/4 半原系統の取水を終了
地図を見ていると、不自然なくらい一直線に伸びる道路を見かける事があります。
そんな道路では脇に「○○水道局」などの看板を見かける事が多いです。
愛川町にも「水道みち」があり、前出の馬渡橋の脇を走っている導水管は、田んぼや町並みや線路、大きな相模川さえもろともせず、ほぼ一直線に進んでいきます。
この水道は旧日本海軍によって明治45年から約10年がかりで建設された、横須賀港の軍艦への飲料水補給用のものです。
昔、この愛川からの水は「軍艦に積んで赤道を越えても腐らない。」と言われたほどの良水だったそうです。
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現在の宮ケ瀬ダムの直下、半原にある取水口から10.000m3/日の水を取り込み、500m下流の水源地で沈澱処理をした後、愛川・厚木・海老名・綾瀬・藤沢・鎌倉・逗子の市町を抜けて、53km先の横須賀市に達します。
この間の標高差70mを利用しているだけで、ポンプなどは使っていないとのこと。
トンネルが12ヶ所、橋が10ヶ所あり、途中で曲がるのはたった10ヶ所だけだそうです。
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「横須賀市水道局 半原水源地」
門柱には横須賀市長書の立派な表札が。
取水口はこの上流約500m、宮ヶ瀬ダムを出た水がR412をくぐる辺りにあります。
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山が川岸まで迫った地点で、現在の車道は堤防脇まで迂回しますが、水道は煉瓦のトンネルで一直線に。
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馬渡橋を渡る所、導水管は橋台の脇で道路の地下から一段高い位置に出てきます。
段差をつける理由は分かりませんが、この施設もトンネルと同じく煉瓦積みです。
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ほとんど埋もれていますが、「横須賀」の文字の見える標柱。
他には海軍マークの物も。
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田んぼの真ん中から河岸段丘に向かって一直線に登っていく水道みち。
坂の頂上には「水道坂」の標柱。
この先内陸工業団地の格子状の道路の間を斜めに突っ切り厚木市に入り、相模川の水道専用鉄橋に向かっていきます。
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相模陸軍飛行場の遺構
現在は「内陸工業団地」になっている場所、相模ナンバーの車検場のある一帯は、戦時中「相模陸軍飛行場」でした。
町の郷土資料館に写真や資料があるのを知って見学に行き、また、僅かに遺構が残っているとの情報も見つけ、出かけてみました。
現在は、個人や企業の私有地内に位置するものも多く、見物するだけならどれも道路からでも可能ですが、写真撮影の許可をお願いすると快くOKを頂きました。
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通用門の門柱
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通信施設
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格納庫基礎
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排水路橋
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門柱(移設されたもの)
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訪れた遺構の中で、排水路橋だけは以前から存在に気付いていました。
ただの築堤に見えても、鉄道の廃線跡だとピンときて分かる、あの感じ。
飛行場があった話は知っていたので、初めてこの道を通った時から、「この橋、何かしら軍関係の遺構だろうな」と・・・。
相模陸軍飛行場は、昭和15年に熊谷陸軍飛行学校の中津分教場として開設されました。
その後、戦争激化により戦闘機が配備され、出撃基地化されたそうです。
米軍から日本の最優秀機と言われたという、四式戦闘機「疾風」が配備されていました。
戦争末期には特別攻撃隊の訓練基地となり、実際に特攻出撃も行われたようです。
県立あいかわ公園にある愛川町郷土資料館には、四式戦闘機「疾風」の風防や飛行場に関する写真、資料が展示されています。
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